朝の陽の優しいひかり。風にふわりと舞うカーテンの陰影。頬やまつげを撫でてゆくそよ風。遠くに聞こえる小鳥のさえずる声。
ああ……。夢のはずなのに、本当にこの世界に来たみたい。
「……リス! クラリス! 聞いているのか!」
なによ、静かにしてよ。クラリスなんて人、私は知らないわ!
私の頭の上で、怒鳴らないで。せっかく気持ちよく寝ているのに……。
「クラリス! いきなり眠るとは何事だ!」
男の怒鳴る声が聞こえてくるが、私にはまったく聞き覚えのない声だ。
うっすら目を開ける。まぶしい。思わず、掌で太陽を遮る。
「クラリス!」
私はぼうっとした頭を左右に振る。それに驚いたようで、クラリスと呼びかけていた声の主が、今度はとてもおどおどしたような声で私を心配してくれる。
「……クラリス、その、なんだ、……大丈夫か?」
「えぇ。ちょっとまぶしくて目眩がしただけ……だから?」
再度、ゆっくり目を開けると、一番始めに目に入ってきたものは、深紅のネイルであった。
「何、これっ! こんなネイル……仕事に行けないじゃない! 誰よ、こんないたずらしたのっ!」
嘆き始める私。
今日は早朝出社の予定だった。それなのに、こんなネイルじゃ仕事に行けないし、指も動かしにくい。料理もできそうになかった。大体、魔女の爪のようにこんなに鋭くとがって長ければ、自分を傷つけてしまいそうで怖い。
「どうなっているの!?」と叫んでいると、背後から落ち着いた声で話しかけてくる初老の男性がいた。執事のような黒燕尾服に白の手袋だ。
「……あの、クラリスお嬢様? 先程から、一体どうされたのですか?」
「クラリス、クラリスって、私、クラリスじゃないわ! どこのどなたか存じませんけど、クラリスさん、早くみんなに返事してあげてくれないかしら?」
そう言うと、青年と紳士――仮に執事と呼んでおこう――は、困ったように顔を見合わせる。
「ところで、お二人はどなた? そのクラリスという方を探しに来たの?」
私は、頬に手をやり小首をかしげてみた。見覚えのない人ばかりで、見覚えのない服装である。見知らぬ人が私を取り囲んでいることが、急に怖くなってきたのだ。
「ふざけるのもいい加減にしろ! お茶がしたいとそなたが言ったから、時間をとったのだぞ。話していたと思っていたら、突然眠りこけるとは。皇子である俺の前で失礼ではないか!」
見たこともないほど綺麗な顔でネイビーブルー髪に金目の少年……いや、青年がとても怒っていた。見たことのない……いや、どこかで見たことあるような気もしないこともない青年をじっと見つめる。
「あの、本当にあなたたち、どなたなんですか? 私、あなたのような美しい知り合いなんていませんよ?」
今度は、私の言葉にあんぐり口を開けて固まってしまった青年は、それでもなお、美しかった。
「美しい……? クラリスが、俺を美しいと形容するだと……?」
「……あの、クラリスお嬢様」
「ええと、執事さん? もう一度言いますけど、私、クラリスではないんです。優奈。西条優奈と言いまして」
「サイジョーだと? なんだ、そのおかしな名前は? そなたは、クラリス・ホーエン……この国の重鎮、ホーエン侯爵の娘であろう!」
とうとう、目の前にいる青年も、堪忍袋の緒が切れたように言う。
…………ホーエン?
頭のなかで、聞き覚えのあるその単語を咀嚼する。
……ホーエン。クラリス・ホーエン!
明け方までやっていたゲームに、悪役令嬢が出てきた。その少女が、「ホーエン侯爵家」の娘だったことを思い出す。
私は思わず、もう一度ネイルを見る。深紅のネイルで、小指にだけ紋章が入っている。「ホーエン侯爵家」を表す家紋だ。こんなものを私や、私の知り合いがいたずらで施せるはずがない。
そして、何より、身にまとった深紅のドレス。薄給の会社員の私が用意できるはずもないほどに生地がいい。
小ぶりだった私の胸は、見たこともないほど、立派になっている。
両手の平に収まりきらないほどだ。一度でいいから大きな胸を体験してみたいと思っていたが、こんな形で願いが叶うとは思っていなかった。
腰は細くくびれ、お尻は健康的に丸い。
肩までしかなかった髪は、腰まで伸びていた。炎のごとく紅い髪は、メイドたちのおかげなのか、輝くように美しい。
私が寝かされていたベッドの横には、小さな鏡がある。思わず覗き込めば、整った眉、すこし高すぎる鼻。小さな赤い唇。そして……鋭い目つきの少女がいた。
「……私、本当にクラリス・ホーエンになっちゃったのぉー!?」
「いや、そなたは生まれてから一七年間、ずっとクラリス・ホーエンだったぞ」
「そこ、冷静なツッコミいらないから!」
目の前の青年に言ってみるものの、青年も困った顔をしている。
「執事、本当に、クラリスはどうしたんだ?」
「さあ……。今まで長くお仕えしてきましたが、この寝ぼけ方は初めてでして」
青年と執事が、目の前でこそこそと話している。
段々、目も覚めてきた。これが、夢ではなく現実だと理解し始める。
風も頬に感じるし、外から入る日の光はまぶしい。遠くで小鳥も鳴いている。
もし、これが夢だとしたら、私は妄想世界選手権で金メダルをとれるだろう。
……本当に、私は私でなくなったのね?
そう思った瞬間、体の力が抜けていった。
「クラリスーー!?」
「お嬢様―!!」
青年とメイドの声が響くなか、私はブラックアウトしたのであった。
理解するのと、納得するのは違う。自分が自分でなくなったことを脳が受け入れても、心は拒絶反応を起こしたのだった。
けれどここから――愛されたことのない「クラリス」と、愛を裏切られてきた「私」の日々が始まったのだった。