ルーカスは、もっときちんと休むよう促し、私は城を退出した。
屋敷に戻るなか、馬車の窓の外を見ると、ヨーロッパの街並みを思わせるような風景。私はいちいち感嘆する。
街は石畳で、馬車が行きかい、目に入ってくる家や屋敷も、私が住んでいた町では見たことのないようなものばかりであった。
些細なことでも、今の私には新鮮である。だって、知らない土地で知らない世界なのだから……。
風景に見とれていると、執事に声をかけられ驚いた。街並みに気を取られて、安全のためにと執事が一緒に馬車へ乗っていることを忘れてしまっていたからだ。
「お嬢様、危ないですよ」
「ええ。そうね。ありがとう!」
お礼を言うと、執事には驚いた顔をされる。たしかに、今までのクラリスなら、ぶすっとして返答すらしなかっただろう。
「クラリスお嬢様、旦那様に本日の話をさせていただきます」
「ええ、お願いね」
屋敷に着くと、出迎えてくれる侍女やメイドたち。その中の一人が、執事に手招き去れ、こちらに来る。
「それから、こちらが侍女のソニア。憶えていますか?」
「いいえ、ダメみたい」
そういうと、仄暗い目を私に向けてくる。
我儘し放題だったクラリスのことを考えると、辛くなった。
「実はね、ソニア、私、前の記憶がなくなってしまって、何もわからないの。あなたが知っているクラリスお嬢様を教えてくれるかしら?」
「では、こちらに。お部屋に案内します」
ソニアがクラリスの部屋へと案内してくれる。ソニアの背中を見ながらついて行った。
「クラリスお嬢様は、利発な方で、私たち侍女やメイドにも寛大で……」
「それ、絶対嘘よね? 我儘であなたたちにも酷く当たっていたのではないかしら?」
「そんなことは……こちらが、クラリスお嬢様のお部屋です。お隣が、妹のティアナ様のお部屋ですので、くれぐれも入らないでください!」
ティアナ……? それって、ヒロインの『ティアナ』のことなの?
隣の部屋の扉を見つめ、私は『ティアナ』の名前を聞いて混乱した。
私が知るティアナとは、庶民の子だったはずだ。なのに、私の……クラリスの妹? わけが分からない。
「あの、ソニアさん?」
「ソニアとお呼びください。私はこの屋敷に雇われている侍女に過ぎないのですから」
「じゃあ、ソニア。ティアナって……私の妹なの?」
眼を見開いて見てくるソニア。私に記憶がないことを疑っているようだった。
「とにかく、こちらへ。廊下は冷えますから」
「そうね、あなたももっとくつろいでちょうだい」
私たちは、クラリスの部屋へと入り、私がソファへ座る。ソニアは、私の側に立ってくれた。
「ティアナのこと、教えてくれるかしら?」
「クラリスお嬢様は、本当に何も覚えていらっしゃらないのですか?」
「ええ、ごめんなさい……すべて忘れてしまったの」
「責めているわけではありません。私が知ることでよろしければ……何か思い出すきっかけになるかもしれませんから。
ティアナ様は、旦那様と妾の……現在の奥様の子どもで、最近まで街で暮らしていたのです」
ぽつりぽつりと、寂しげに悔しそうにしながらソニアが私にティアナのことを教えてくれる。
「クラリスお嬢様の母上は、五年前に亡くなりました。そのころ、旦那様は、クラリスお嬢様と変わらないお子が街にいらっしゃることを知り、その……」
「父が妾とその子をこれ幸いと屋敷に連れ込んだわけね?」
「そのとおりでございます。私どもは雇われている身。奥様に大切にされて来ましたが……」
「母が築き上げた侍女たちとの関係は、継母がおざなりにしてしまっているってことなのね。
そして、私より、ティアナの方を父が気にかけているってこと? もしかして、ルーカス皇子との婚約もティアナに変えようとしているのかしら?」
私が適当に話をすると、ソニアは目に涙を浮かべた。私の記憶がないことと、今まで荒れていたであろう私が侍女であるソニアの話を大人しく聞いていることで胸がいっぱいになったのかもしれない。
「実際見てみないとわからないけれど、ソニアの話を聞けてよかったわ!」
「滅相もございません!」
とうとう泣き出してしまうソニアに、ハンカチを渡す。
それと、何よりしてほしいことがあることを思い出し、「ソニア」と声をかけた。
「何でございましょう?」
「この派手なネイルをなんとかしてほしいの。もっと簡素なものに。塗るなら、薄いピンクとか控えめのほうがいいから、整え直して欲しいの。お願いできるかしら?」
「喜んで!」
そういって、ソニアは道具を取りに部屋を出て行った。
着ていたドレスを脱ごうと、後ろのリボンを引っ張るとコルセットで固めてあるドレスが多少緩み楽になった。
ふぅっと息を吐いたところへ、明らかに侯爵家の美容隊と思われる複数の侍女やメイドたちが部屋に入ってくる。
「クラリスお嬢様! それは、私がしますから……」
「もう、苦しくて……緩い服に着替えさせて……」
城からここまで我慢をしてきたが、コルセットで絞られている感じがずっと苦しかった。そういうと、ソニアはパジャマを持ってきてくれる。
慣れないものに体中を締め上げていたせいか、もう疲れきっていた。
ベッドに横になれば、体をほぐしてくれるもの、爪を綺麗にしてくれるものが分担して私を磨き上げてくれる。
「クラリスお嬢様、爪の方はどうされますか?」
「薄いピンクはあるかしら……?」
「はい、こちらに」
「あとは、これとこれ……」
「これらで、どうされるのです?」
不思議そうに私を見ている侍女たち。
久しぶりに自身の爪を整えて、好きなようにできるのが嬉しい。何色かのフレンチネイルや、ラインを引いたりして、遊ぶことにした。
「私がします!」
「待って。失敗したら……お願いするから!」
久しぶりのネイルを楽しんで描いていく。
ただ、利き手はできても反対側はできなかったので、見ていたメイドが続きをすることになった。
初めてフレンチネイルをするようで、やり方がわからないと小首をかしげながらも、左右対称に塗ってくれる。
優しい色合いになり、それだけで、安堵した。
「あの……クラリスお嬢様、よろしいのですか? そのような簡素なもので……」
「ええ。今までのは、私の好みじゃないわ」
はぁ……と言いながら、侍女たちはお互いの顔を見合わせている。
今までの私は、とにかく派手で目立つことしか考えていなかったのだろう。
綺麗になった爪を見ながら微笑むと、侍女たちもホッとしたような安堵した表情をしていた。
「今日は、みんな、ありがとう。少し眠るから、ごめんね」
侍女たちがソニアと同じように驚いていた。
私……いや、クラリスって、侍女たちに相当な我儘か嫌味かを言っていたらしいことがそれだけでわかる。
「クラリスお嬢様、極力ティアナ様には近づかないよう、くれぐれもお気をつけください。旦那様が、大層可愛がられておりますので……」
「わかったわ。ソニア、教えてくれてありがとう」
再度、ソニアにお礼を言えば、いいえこれくらいといい、他の侍女たちと共に部屋から出て行ったのである。