第一章 ライターの秘密 1
腹、減った…… もう昼じゃねえか。
仕方なくもそもそと起き上がる。今日も天気がいい。太陽が眩しいくらいだ。
ここは間違いなく日当たりがいい。ボロいカーテンがレールに掛かってるレベルだ。眩しかったに違いない。
それなのに何故俺は起きなかったのか…。まあ、それだけ”ここ”に慣れたってことだ。
ココは海に近い。そういうと格好いいけど”港湾”と言ったほうが分かりやすい。そう、ここは港だ。しかも工場や倉庫が並ぶ工業地帯だ。
輸入を手掛けていた外国人が経営する会社の事務所だった。その社長が夜逃げした。しばらくは探していたみたいだが、それも打ち切られた。それからここは借り手がつかない。空けておくよりいいだろうと不動産屋の提案を大家は受け入れた。破格の三万。
破格? いやいや、住んでみると意外とここは不便だった。風呂はない(海外にありがちなシャワーは付いてる)。トイレ付き。簡易台所。ただそれだけだ。
コンビニは近くにはない。スーパーも離れたところにある。俺は運転免許はないので、何処へ行くにも自転車だけ。
まあ、住めば都っていうしな。雨風しのげりゃ文句はねえ。
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俺が”家無し”になったのは、高校三年の夏だった。
親父の会社がヤバそうなのは薄々気が付いていた。あれだけ携帯で話していて謝ってペコペコしてりゃ誰だって気がつくっての。
親父は段々と家に帰らなくなった。そして俺が三年に上がる頃、プツリと帰って来なくなった。
その後、母親が大変な思いをするんだろうなってぼんやり思ってはいた。だが母親とはあまり折り合いのよくなかった俺は自分のことだけ考えることにした。チャラい金髪に染めていた髪を茶色の戻し、バイトを増やした。夏休みには昼も夜も働いた。スーパーのレジ、居酒屋のランチ、Barの店員、建築現場。出来る限りのことはした。
担任からは『進路の用紙出してないのお前だけだぞ』って言われたけど、フリーターって書いといてくれよって返した。
ところが母親は親父のように大変にはならなかった。暫くは窓辺に立ってぼんやりしていたが、ある日突然バッチリと化粧をキメて家から出ていった。その日は朝方帰ってきて、ホッとしたのを覚えている。
夏休みが終わり学校が始まった。母親はやはり時々フラリと出て行っては朝方帰ってきた。取り立てらしき電話もなく、奇妙だがこんな生活が続いていくのだと思っていた。
だが、ある日家に帰ったら家が競売にかけられていた。中に入れないと言われた。俺は何のことか分からずに喚き立てた。しかし管財人は不思議そうな顔で『おかしいですねえ。お母様には再三お伝えしたはずなんですが』と言っていた。
母親はその日から帰ってきてはいない。どうやら年増のホストに入れ込んで、二人で逃走したらしい。そのホストも店への掛けを踏み倒していた。
困ったのは俺だった。このままだとあと半年で終わる高校も辞めなくてはならない。
借金は親父の自己破産でなんとかなっていたようだ。連帯保証人は母親。両方ともいない。担任は何故か優秀な弁護士を紹介してくれて、借金の件は俺には降りかからないようにしてくれた。だが俺は一文無しだった。バイトの蓄えが多少あったが、学費を払って部屋を借りれるほど貯まってはいなかった。そこで親戚はある提案をしてきた。
『学費は工面してあげるから……でもこれ以上関わりたくないから、それを手切れ金として縁を切らせてもらえないだろうか』
クソが。
俺は喜んでその提案に乗った。
それから友達の家を転々として、なんとか高校は卒業した。昔からダチには恵まれていた。
**
今日の昼飯は何処で食うかを考える。
今の時間ならランチが始まる前に食って出ないといけない。
──そうするとBenさんの店だな。
俺はその辺の綺麗そうなTシャツを引っ掴んで着替え、お気に入りのジョガーパンツを履いて自転車の鍵を掴んで部屋を出た。
Benさんの店は石川町の外れにある。小洒落たDinnerだった。昼は近所の会社の人にせがまれてカレーとタコライスをランチとして出している。二種類でよく飽きねえんなあと聞いたら、『逆にそれを食べたいから来てくれるお客さんが多い』と言っていた。今日は腹が減っているからカレーだなと算段した。
店のドアを開けるとカランと昔ながらの音がした。
「すいません、まだランチの時間には早いんでちょっと……って亘か」
カウンターの中から声がする。
「ちぃーっす。ランチ始まる前に間に合いました!」
「ちょうど仕込みが終わったとこだわ。その辺に座っとけ」
俺は軽く頭を下げてカウンターの丸椅子に座る。
「何にする?」
カウンターの中のマスターであるベンさんが俺に聞く。むちゃくちゃガタいはいいが、温厚でそれこそ喧嘩なんてしたことのない人だった。短く刈り込んだ黒髪のせいか、どこか小料理屋の料理人と言われても納得してしまいそうな風貌だった。
ここは昔、今のベンさんの奥さんがBarを営んでいた場所だった。そのBarで二人は知り合い一緒になった。別の飲食店で働いていたベンさんが店を持つ形になったのである。ところが若くて美人の奥さんは非常にモテた。だからってチャラチャラと誰とでも付き合っていたわけじゃない。むしろベンさん以外の男の影などなかった。
店をリニューアルするので一旦閉めるとなったその日、俺は単発で手伝いにここに来ていた。
そしてそれは起きた。
奥さんに入れ込んでいた男がナイフを持って襲ってきたのだ。誰しもが楽しんでいた時間だった。男は音もなく標的に寄ってきた。
──あと少しのところで刺されるところだったのだ、刺される者が代わりにいなければ。
刺された代償としてベンさんも奥さんも治療費と慰謝料を払うといってきた。だが治療費以外いらないと俺は断った。その代わり……飯を食わせてくれとお願いしたのだ。
「カレー大盛り!」
俺はニカっと笑った。
ベンさんは溜め息をついた。
「ちゃんと食えてんのか?何ならウチで働いてもいいんだぞ?」
「大丈夫、それなりに仕事はあるから」
浮気調査とか浮気調査とかペットが迷子になったとかな。引っ越しの手伝いとか庭の草むしりとか…最近じゃ孤独死の後片付けってのも増えてきている。
ベンさんは苦笑しながら、厨房を動き回る。
「ちょっと待ってろ。唐揚げ揚げてやるから」
「あざます!」
ベンさんは俺の心配をよくしてくれる。親父って年齢じゃねえから、兄貴って感じだな。
「……おい」
突然声をかけられて、俺はビクリとした。
見ればカウンターの端に爺さんが座っていた。
「なんだよ、驚かすなよ。……あれ? 爺さん今日デイケアの日じゃなかったっけ?」
この爺さんは奥さんのお父さん。もういい年齢で、週に何回かはデイケアに通っていた。
「そ。デイケアの日。昨日飲みにいって、朝起きられなかった。今から送ってくとこ」
「なんだよ、いい年齢して遅刻かよ」
「遅くまで飲むからだよ。もういい加減年齢を考えて……」
「うるさい。おい坊主、火貸せ」
爺さんは煩そうに一喝した。もう90歳になろうというのに酒も煙草も現役だった。昔はかなりの遊び人だったそうで。
俺は仕方なく立って、爺さんの隣に座り直した。
爺さんは昔ながらのPEACEを吸っている。
俺は煙草は値上がりしたんで、安い葉巻の葉を煙草の紙で巻いたCigarを吸っている。ポケットから100円ライターを取り出す。最近の100円ライターは事故防止のため、ボタンを押すのにかなり力がいる。仕方なく俺は火を点け、差し出した。
爺さんは美味そうに吸い込み、名残惜しそうにゆっくり吐き出した。
「なあ、そう言えばZIPPO持ってただろ? あの宝石が嵌った特注のヤツ」
爺さんにしてはかなり洒落ていた。確か……アメシストの嵌ってるZIPPO。
「忘れてきた」
「は? どこだよ?」
「麦田町のスナック。アムールって知ってるか?」
俺は思い出す。
「ああ、行ったことはねえけど、看板は見たことある」
「取ってきてくれ」
「は?」
「報酬は出す」
いや……報酬ってモンでもねえだろ。
「まあ、今日はヒマだから行ってきてやるよ」
「約束だぞ。”あのライターを俺のところまで持ってくる”。それが約束だ」
「あ、ああ。わかった」
忘れてきたところがはっきりしてんだ、問題はないだろう……たぶん。どうも爺さんの言い方が気になった。
「あ! また煙草吸ってる!」
甲高い声がした。振り向けば奥さんの前夫の娘だった。最近免許を取ったと聞いた。この娘が送っていくのだろう。確か大学生だったはず。気の強い物言いさえしなければ、口元のホクロがセクシーな美人だった。
「……お前の運転する車には怖くて乗りたくない」
「だったら寝坊なんてしないの!いい年齢して午前様なんてどうかしてるわ!」
「その甲高い声なんとかならんか。頭に響く」
キーっと怒り出しそうな娘の肩を奥さんがポンポンと叩く。
「もう、いいから早く送って。皆さん待ってるんだから」
「お祖父ちゃん! 行くよ!」
娘はプイっとドアから外へ出て行った。爺さんは名残惜しそうに一服吸うと、灰皿に煙草の火を押し付けた。
「──頼んだぞ」
爺さんはそう言い残すと、山高帽を被って出て行った。
ただライターを取りに行くだけの話だよな?