アメリカンな私の態度に社長は激昂しなかった。
まあ、怒るならとっくの昔に怒っているだろう。
「気には、なっていたんだ。社員の有給取得率が低いことも、残業の申請が低いことも、離職率が高いことも」
呟くような声。
しかし、幹部クラスの社員に尋ねても、問題なしという答えが返ってくるのみだったらしい。
「それを信じたのですか?」
鼻で笑い、私は居並ぶ男たちに一瞥をくれる。
目をそらされた。
だから、そんなに小娘に怯えるなって。
どんだけチキンなのだ。
でも、その態度は利用させてもらおう。
「これが答えですわ」
ステージの上のマジシャンのように、社長に手を広げてみせる。
ご照覧あれ、顔を背けるのは罪の証である、と。
「なんでそんなことを……」
信じていたスタッフに裏切られ、社長は絶望の表情を浮かべた。
「もちろん会社のためであり、自分のためですわ。がんがん仕事をこなして儲け、会社を大きくしたい。そして自分は出世して高禄を食みたい」
間違った考えではないし、おかしな欲望でもない。
当たり前のことだ。
「ですが、いつしか彼らは憶えてしまったのです。きちんと時間をかけて手間をかけて人材を育てるよりも、壊れたら捨てて、また新しい使い捨ての道具を買ったほうが安上がりでラクだ、と」
「馬鹿な……」
頭を抱える社長。
目を泳がせる幹部社員たち。
人間は機械の部品ではない。壊れたら交換する、というわけにはいかないのだから大切にしなくてはいけない。
というのが、本来の人材育成だ。
どんな騎士団だって、はじめから一人前の騎士なんかいないのである。
見習いから始まり、幾多の戦場を駈け抜けて正騎士となってゆく。もちろんそこに至るまでに命を落とす者だって少なくない。
だからこそ、将は兵を大切にする。
徒死させないように。
人的資源《マンパワー》が減れば減るほど、とれる作戦の幅は狭くなっていくし、戦闘効率だって悪くなる。
どんな愚将だって、その程度のことは知っているのである。
しかし、日本では最前線で戦う兵たる社員や契約社員を、簡単に使い捨てるようになってしまった。
人として育てるのではなく、道具として使い潰す。
理由はわからない。
あるいはバブル崩壊後に横行した大規模な|人員整理《リストラ》経営に端を発しているのかもしれないとも思うが、さすがに確証は得られていない。
ともかくも、人は切っていいんだ、と、企業人たちは考えるようになった。
「自分が切られることもなく、利益を享受し続けることができるなら、これほどラクな話はありませんものね」
無理な納期を無茶な長時間労働でクリアする。
スタッフにかかる負担など考えない。
潰れたら、またどこかから買ってくれば良いだけ。
「そうやって中間管理職である課長クラスは必死に実績をあげようとする。それを幹部社員がにやにや笑いながら見ている。もし問題が表面化すれば、課長クラスに詰め腹を切らせれば良い。そんなところですか」
視線を巡らせ、適当な幹部社員に語りかける。
「ふ、福利厚生はちゃんと用意しているんだ!」
ヨーデルになりかかった声で反論してくれた。
なんともベタというか、予想通りの反応をありがとう。
「使われなければ意味がない上に、課長クラスが使わせないようにしているのですから、無意味さは二重ですわね」
「そ、それは課長クラスが勝手に……」
「それを詰め腹といってるのですわ。いい加減になさい」
「ひ……」
やや口調を強くすると、へたりと床に座り込んでしまった。
弱すぎだ。
「とまあ、これが谷河商事の実体ですわ。ブラック企業ではないと、なお主張しますか? 御身は」
ふたたび社長に向き直って問う。
ゆっくりと首が横に振られた。
この人物はそう無能ではないし、もちろん悪逆でもない。
しかし組織が腐るとき、トップはまともだったのだが、というケースも少なくないのである。
たいていは、ナンバー二、ナンバー三あたりからおかしくなってゆくのだ。
「ご理解いただけて幸いですわ。では、そろそろ退職の手続きに移りたいのですが」
ゆったりと笑いかけた。
彼に志があれば、自分の会社の体質を変えようと動くかもしれない。
ホワイト企業が誕生するか、それとも改革に失敗して退陣に追い込まれるか。
しかし、それは私には与り知らぬこと。
ここまで大暴れ(大声で叱咤しただけ)しておいて、会社に残してくれなどというつもりはない。
私にはなんの落ち度もないのに、お前はクビだ、と、課長が言ったのだから、退職理由は会社都合。即日解雇なのだから解雇予告手当は三十日分の満額だ。
ほくほくである。
失業給付も、すぐにもらえるだろう。
毎月の給料から失業保険はちゃんと引かれているし。
「……待ってください。山神さん」
口調を改め、社長が正面から私を見た。
真っ直ぐに瞳を見つめて。
「なんでしょうか」
「どうか、我が社に残っていただけませんか」
それから、深々と頭を下げる。
ふむ。
「先ほど、ブラック企業の片棒を担ぐつもりはないと申し上げましたが」
「これまで我が社はブラック企業だったかもしれません。いえ、ブラック企業でした。ですが、今日を境に変わります。変えてみせます」
決意表明だ。
というか、私にそれをしてどうするという話だが、だから残ってくれという流れなのだろう。
それはそれで意味不明である。
私は一介の事務職であり、会社の経営方針に口を出す立場にはない。
労働者としての権利以上のものをもってはいないし、求めるつもりもない。
「立派なことだと思いますわ。ですが私は」
「貴女にも手伝って欲しい」
私の言葉を遮り、宣言する。
おおっと。
さすがにこれは驚いた。
周囲の幹部社員たちも動揺している。
ブラック企業の片棒を担ぐのではなく、改革の手伝いというなら協力するに|吝《やぶさ》かではない。
しかし、会社の人事というのは、そう簡単なものではないだろう。
ただの事務員をいきなり幹部社員に抜擢などしたら、株主たちだって黙ってはいまい。
まして私は女だ。
クリュニクューラ王国ほどではないにしても、日本だって充分に男性社会である。
「秘書に、なってくれませんか? 山神さん」
「……そうきましたか」
これは参った。
その抜け道を使うとはね。
ザンドルは、そういう口実で私を側に置いたのである。
秘書なら軍議に参加したっておかしくないし、会議中にこそこそ話していたって誰も変には思わない。
私ではなく第二王子の口から出た指示なら、女のくせに横紙破りな、とはならないのだ。
「ですが、よろしいのですか? 私のアドバイスを受けるということは、今の幹部社員にとっては非常に生きづらい会社になりますが。少なくとも短期的には」
一応は言っておく。
ホワイト企業になった方が、じつは幹部たちだって余裕ができるし、仕事の効率だってあがる。
しかし、短期的には利益は落ち込むだろう。
無茶な仕事を受けなくなるということだから。
そして公平に利益を分配することになれば、幹部社員だけが美味しい思いをすることだってできなくなるのだ。
「かまわない。むしろ当然だ。いままでがおかしかったのだから」
そう言い置いて、社長はじろりと幹部たちを見まわした。
いやいや。
御身が最高責任者だからね。
たぶん、最も生きにくくなるのは御身だよ。
これまでのように、良きにはからえ、というわけにはいかなくなるのだから。
幹部たちが大変に居心地悪そうにしている。
私の方をちらちら見るのは、たのむから断ってくれ、とでも思っているのだろう。
そこまで期待されたら、応えないわけにもゆくまい。
にやりと笑う。
「判りましたわ。そうまでして私をお求めになるのでしたら、微力を尽くさせていただきます。無能非才の身ではありますが」
謙遜ではない。
かつて私は一敗地にまみれ、死んだのだ。
失敗者で、敗北者なのである。
今度だって、上手くゆく保証なんかどこにもない。
「助かります。山神さん」
もう一度、社長が頭を下げた。