社長は三十代前半に見える若い男だった。
ちょっと意外である。
自分が勤めている会社のトップの顔も知らないのかよ、と、言われそうだが、案外そんなもんだ。
下っ端からみれば社長なんて殿上人。
顔を合わせる機会なんかない。
「ここまで声が聞こえていた。いったい何があったのかね?」
表面上は紳士的に社長が問いかけた。
谷河新《たにかわ あらた》。会社のホームページには、たしかそんな名前が記されていたはずである。
四代目だか五代目のオーナー社長で、数年前に代替わりしたばかり、だったかな。
「有給休暇を申請しただけですわ」
微笑を返すが、さすがにこれだけでは説明不足なので、課長とのやりとりをかいつまんで解説する。
「それだけのことで……」
やや呆れたような顔と声だ。
「さて、それはどちらに向けた言葉でしょうか。社員の有給休暇すら頑として認めない課長か、そのくらいのことも我慢せずに言い返した私か」
唇を歪めてみせる。
私の言葉から一戦も辞さずという雰囲気を読みとることができないなら、この社長もそれまでの男だ。
しょせんは三下ということ。
大局に立った判断などできようはずもない。
「どちらかというと君にかな」
「ほう」
「こんな茶番を演じなくても、直接ここにくれば良かったんだよ」
「ほほう」
社長がにやりと笑い、つられるように私も笑ってしまった。
読んだね。
この男。
課長が拒絶するであろうことを見越して私が有給休暇を申請したこと、彼にケンカを売らせるように仕向けたこと、すべてはここに案内させるために組んだ舞台装置である。
なかなかにものが見えているようだ。
となれば、べつに解雇されてもかまわないと私が考えていることも、当然のように読んでいるだろう。
「それでは、解雇予告手当を用意してくださいますか」
すこし踏み込んでみる。
「まあ、まちたまえ。そう結論を急くものではない」
言って席を立ち、社長自ら応接セットに誘ってくれた。
さすがに上座に座らせるようなことはしなかったれけど。
私が腰掛けると、周囲に数人の幹部社員が立つ。
さりげなく配置を確認しておくが、中年から初老の男性が五人ほど棒立ちになっているだけだ。
これならたいして苦労もせずに斬り破ることができるだろう。
「……山神くんだったかな。君は格闘技でもやっているのかね?」
まるで世間話でもするように口を開く。
名前を言ったのは、すでに私のデータは持っているぞというアピールか。
あれだけ騒いだからね。
すぐに履歴書なりを持ってこさせたのだろう。
「いいえ? なぜそんなことを?」
実際、この私は格闘技なんぞやっていないし、履歴書にも書いていない。もちろん向こうにいた私は、貴人のたしなみとして一通りの武芸は修めているが。
「いま、誰から倒すのが効率的かと分析しただろう?」
「ほう」
知らず、私の唇が半月を描いた。
判るのか。
ということは、この男にもそれなりに心得があるという証拠だ。
「僕は学生時代に剣道をやっていてね。これでも全国の一歩手前くらいまではいけたんだよ」
|相好《そうごう》を崩し、テーブルの上におかれたガラス製の灰皿に視線をむける。
なんだ?
吸いたいならどうぞ。
私は喫煙者ではないが、他人の喫煙に対しては寛大だ。
マナーを守って吸う分には、目くじらを立てるつもりはない。
「君が戦力分析をした瞬間に、僕も同じことをしたんだよ。こいつを掴んで殴りかかったら勝てるか、とね」
「なるほど。参考までに分析結果を教えていただけますか?」
「勝ち筋は見えなかったよ。きれいさっぱりね。むしろ僕の本能は、逃げろと叫んでいたね」
両手を広げてみせる。
失礼な。
私は猛獣かなにかか。
そんな重そうな灰皿でぶん殴られたら、さすがに頭が陥没してしまう。
簡単に当たってなどはやらないが。
「段位でももっているのかと思ったよ。あの叫びもね」
「猿叫《えんきょう》というわけではないのですが」
苦笑してしまう。
野太刀自顕流じゃないんだから。
とあるマンガ作品で有名になった剣術だ。ものすごい奇声とともに斬りかかってくるシーンが幾度も描かれている。
「いやいや。多かれ少なかれ剣道は叫ぶもんだし、そして実力の差をはっきりと感じてしまうんだ」
「そういうものですか」
道場剣法ならそうでしょうね、とは口に出さなかった。
そもそも今の日本には道場剣法しか存在しない。これは剣道に限った話ではなく、すべての格闘技にいえることである。
戦場の剣なんて、しょせんは殺し合うためのもの。
己を高めようとか、相手に対する敬意とか、そういう感情は一切存在しないのである。
確実に敵の戦闘力を奪い、自らが生き残るために剣を振るう。
どちらが高尚かとか、どちらが実践的かとか、そういう話ではなく、使うべき局面が違うだけだ。
この平和な国で、人の殺し方を知っているというのはべつに自慢にもなんにもならない。
「たしかに私は御身を殺めることができます。仮にここにいる方々が身を挺して守ったとしても、さほどの障害にはならないでしょう。ですが、そのこと自体に意味はありませんわ」
課長でも社長でも良いが、私は彼らを殺したいわけではない。
生きる道を少し広げたいと思っているだけで、そもそもこの会社で働くことにこだわるつもりはないのだ。
会社都合による退職という名目と、即日解雇ということであるなら三十日分の解雇予告手当をもらえるなら、喜んで立ち去る。
その上で、たとえば郷里に戻って再就職の道を探すも良いだろう。
ブラック企業である谷河商事にしがみつき続けても、良いことはあまりないだろうし。
「辞めたいというのかね?」
「私が辞めたいのではなく、私を解雇したいのでしょう? 主体と客体を取り違えるのは良くありませんわ」
「なるほど。まずはそこに誤解があるようだね。僕としては君に辞めてもらいたいとは微塵も思っていないよ」
「使い潰されるつもりはありませんわよ?」
しゃらくさい口を叩き合う。
互いに二手先三手先を読みながら。
先読みのできる相手というのは非常に楽しい。
私の婚約者……ザンドルもそういうタイプだった。物腰は柔らかいが芯があり、きっちり先を見据えて行動できる男だ。
好もしかった。
愛している、とは、結局最後まで伝えられなかったが。
うん。
振り返ると、私もなかなかに度し難い女だな。
「君は我が社に必要な人材だ、と、思うんだ」
社長の声で無作為な思考を中断する。
待遇の改善を約束することで引き留める、というのは、常套手段のはずだ。
「ブラック企業の片棒を担ぐつもりもありませんわ」
「そこさ。我が社はブラック企業なのか?」
真剣に問う社長である。
私は大きく息を吐いた。
こういうケースも少なくないとインターネットに書かれていたのを思い出す。
トップは社員を大切にしていると思っている。
しかし現場のことなど何も知らないから、あがってくる報告を鵜呑みにしているだけ。
たとえば、あのお漏らし課長が、社員たちにきちんと休暇を取らせましょうなどと提案するわけがない、という話だ。
自分はこれだけ実績をあげています。業績を伸ばしています。部下たちも無私の忠誠心でついてきてくれています、と、自分に都合の良いことしかいわないだろう。
上役の前では鞠躬如《きっきゅうじょ》としているに決まっている。
それが小者の小者たる所以だ。
で、じつはそれって日本に限らない。
どこにでもいるのである。
トップに立つ者は、中間管理職や中級指揮官の報告を鵜呑みにしてはいけない。
もちろん信じるなという意味ではなく。
まずは信頼に値する部下に要所を任せることが大切。
そしてそういう人物ですら、報告には自分を良く見せようとするフィルターをかけるのだということを、しっかりと意識しなくてはいけないのである。
口でいうほど、トップもその補佐も簡単な仕事ではないのだ。
「有給休暇を申請しただけでここまで大騒ぎになる。これをブラック企業といわないとしたら、世にブラック企業などという言葉は必要ありませんわ」
思い切り挑戦的な口調で言い放ち、私は両手を広げてみせた。