私の勤務先は、谷河商事という中規模の商事会社である。
個人名が社名についていることから判るとおり、創業者の名が社名の由来だ。
べつに珍しい話ではないし、世に溢れるそのような会社がすべてそういうわけでもないだろうが、我が社はワンマン経営である。
株式会社なのに。
まあ、公開している株式の半分近くを社長とその一族が握っているのだから、独裁者に近いだけの権力を持つのは仕方がない。
そして当然のように、働く者たちも社員というより家臣とか手下とか、そういう扱いだ。
「有給? ふざけてんのか?」
いま私の目の前で文句を言っている男も、その一人である。
役職は課長。
苦み走ったいい男、というのは褒めすぎで、ただ常に不機嫌そうな顔をしているだけ。
その顔で睨んだりすごんだりすれば言うことをきくと思っている、あいていにいって小者だ。
有給休暇が取得できないのはブラック企業の典型的な例とのことだったので、こころみに申請してみたらこの状態である。
試しに申請するな、という話になりそうだが、そもそも有給休暇とは労働者の権利だ。
なんとなく休みたいから、という理由で取ったってまったくかまわないのである。
用事や病気でないと休みにくい、というのは、わりと日本人の悪しき習慣だといえるだろう。
「有給休暇申請のなにがふざけているのか、まずそこから伺いたいものですわね」
下目遣いに問う。
これはべつに彼を見くだしているのではなく、私が立っていて彼が座っているという位置関係だからだ。
「俺はな、この十年一度も有給なんか使ったことないぞ」
ふむ。
御身の経歴には一ミリグラムも興味がない上に、御身が有給休暇を取得しないのと私が有給休暇を申請することの間には何らの関係性もないと思うのだが、語りたいというなら語らせてやろう。
「それで?」
「ふざけんな!」
先を促したら怒鳴られた。
さすがに意味不明すぎるな。
「言語化機能になにか重大な欠陥でも抱えているのですか? だとしたら、しかるべき医療機関を受診するべきと愚考いたしますわ。それこそ有給休暇を使って」
冷笑を浮かべてやると、課長の顔がみるみる赤くなってゆく。
沸点が低すぎだ。
この程度の嫌味で怒りを露わにするとは、戦場でも外交の場でもものの役に立たないだろう。
もちろん商売人にも向いていない。
「てめえ! クビにするぞ!!」
私は大きなため息をついた。
この男に人事権などない。ありもしない武器で威圧するというのは、よほど上手くやらないと非常にお寒いことになってしまう。
「それは即日解雇ということですか? でしたら解雇理由の説明と三十日分の解雇予告手当を請求いたしますわ」
「……てんめぇ……」
このように。
残念ながら彼の権限では社員の進退は決められない。
もちろん上司に処分を願い出るということはできるが、それだって今すぐに結論が出せる類のものではないし、そもそも大義名分も立たないのである。
まさか、有給休暇を申請したのでクビにしたいと思います、というわけにはいかないし。
だから課長としては、辞めさせたいと思ったら自主退職に追い込むしかない。
自己都合による退職、というやつだ。
「私に退職願を書くよう強要している、と、判断してよろしいですか?」
「そんなこと言ってねえだろ!」
ばしばしと机を叩いてがなり立てる。
大声を出したり大きな音を立てれば他人が萎縮すると思っているだろう。
それほど間違った考えではないけれど。
戦場では相手に飲まれないために喚声をあげるのだし。
ただ、それを狙っているのなら、このビル中に響き渡るくらいの声でないと意味がない。
私はすっと息を吸い、へその下あたりに力を込める。
日本では丹田というらしい。世界は変わっても、気合いを入れるポイントは変わらない。
どん、と、右足を踏み出す。
「ではどういう意味なのか、きちんと説明なさい!」
肺の空気を一度に放出するように叫ぶ。
課長が椅子ごと後ろにひっくり返り、窓ガラスがびりびりと震えた。
腹から声を出すというのは、こういうことだ。
数万の将兵すべてに届く大音声でなくては、鼓舞にも叱咤にもならないのである。
そしてちょっと喉が痛い。
日本人は大声を出すのに慣れていなさすぎる。
ちらりと振り返れば、部署の人々が怯えたように私を見ていた。その、簡単に恐怖心を持ってしまうのは個人的な特性なのか民族特性なのか。
まあ、今は良いだろう。
私はデスクを迂回して、床に這いつくばっている課長に歩み寄った。
こいつも怯えの表情を浮かべ、目を白黒させている。
「お立ちなさい」
「ひぃっ」
「娘のような歳の小娘に叱咤されてへたりこむとは、恥を知るとよろしいのですわ」
「ぁゎゎゎゎ……」
酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせながら意味不明な言葉をつむぎ続ける。
どんだけびびってるのだ。
「三度は言いませんよ。立ちなさい」
やや強く言い放つと、なんとか出来損ないの自動人形みたいな動きで立ちあがってくれる。
ていうか、失禁しているし。
情けないにもほどがあるというものだろう。
さすがに気遣ってやるほど善人にもなれないが。
「私を解雇したいのでしょう? 人事権を持つ者のところに案内なさい」
「わかりましたから……殺さないで……お願いします殺さないで……」
両手をすりあわせている。
殺さねえよ。
ここは法治国家だろうが。
なに言ってるんだ。このおっさん。
失敬。
内心の声とはいえ、非常に柄が悪くなってしまった。
あまりにも情けない姿を見せられたので、つい。
ほんの数秒前まで居丈高に怒鳴っていたのに、このていたらくである。
企業戦士とはいえ、戦士は戦士だろうに。
暴力に怯える心は理解できなくもないが、それをねじ伏せて戦わないで、自分も家族も守れるわけがない。
強い者におもねり、弱い者を虐げる。
まるでザカールを尻尾を振っていた三下どものように。
捕まった私を散々なぶり者にした連中だ。悲鳴すらあげないものだから、ムキになって爪を剥いだり焼きゴテを押しつけたりしたものである。
思い出したら腹が立ってきたな。
本当に殺してやろうかしら。
などと不穏当なことを考えているうち、私を先導して課長は最上階の社長室までやってきた。
びちゃびちゃのスラックスが気持ち悪いだろうから着替えたらどうかという私の提案は、青ざめた顔で拒絶されてしまった。
心苦しいというか、こいつと一緒にエレベーターに乗るのが、非常に不快だっただけなのだが。
すでに騒ぎが伝わっているのだろう。
社長室の前には数人の幹部社員が待ちかまえていた。
「一緒にきますか? 課長。私ひとりで進んだ場合、御身のことをどれほど悪し様に報告するか判りませんよ?」
「ぁゎゎ……」
また意味不明なことを言いながら首を横に振る。
むずかるように。
幼児退行でも起こしているのだろうか。
この肝の小ささで従業員数百名を数える企業の中間管理職だというのだから、日本というのは平和な国だ。
「左様ですか。ではどこへなりとも消えなさい……と、いうわけにはいきませんわね。着替えて部署に戻り、日常業務に精励しなさい。沙汰は追って伝えますわ」
軽く課長に一瞥を与えたあと、私は社長室へと歩を進める。
立ちはだかる者はいない。
殴りかかってくる、くらいのことは期待したのだが、さすがに理性の方が勝っているようだ。
まあ、幹部社員というのはそれなりの年齢なので、肉弾戦に自信がないのかもしれないが。
右手を軽くあげ、扉を叩く。
とんとん、とんとん。と、四回ノックだ。
国際標準のプロトコルマナーに則って。
ちなみに日本では四回は多いということで、三回というのが一般化している。友人や恋人の部屋にはいるときの叩き方である。
私としては、この会社の社長に対してそこまで親愛の情を抱くことができないので、国際標準の方を守ったわけだ。
「はいりたまえ」
室内から声が響く。
なかなかに渋いバリトンボイス。
さて、鬼がでるか蛇がでるか。
私はドアノブに手をかけた。